座談会御書

創価学会(5月度座談会御書講義)種種御振舞御書(2013年)此の文の心は日蓮によりてー

種種御振舞御書を2013年5月度の座談会で講義することになりました。以下に、実際に講義した内容を掲載します。ご参考になりますかどうか。まず、5月度大百蓮華96頁を皆さんで拝読(音読)後に講義を開始しています。講義にあまり時間がかけられない状況のため作成しておいたものです。

本抄は建治2年(1276年)に身延で著されました。種種御振舞御書には妙法のため、身命を投げ打って大難に挑み、悠々と乗り越えられたご事跡と大確信のご心境が綴られていて、信心の先輩方からは「御書」を学ぶのであれば種種御振舞御書からと良く言われるところです。

拝読範囲冒頭の「此の文の心」の此の文とは開目抄のことで、今回の範囲では、佐渡流罪の渦中で著された「開目抄についての元意」が明かされてています。

そしてその星となる部分が、「日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ」の部分です。日蓮大聖人に死罪・流罪を及ぼした平左衛門尉は「日本の人の魂」である大聖人という「日本の柱」を倒したのだ、本来権力者が立つべき精神の基盤を破壊したのだと獅子吼されています。この大確信の御境涯こそ、今、私たちが学ぶべき御精神です。

日蓮無くして日本の未来はないと仰せであり、今、大聖人仰せのままの仏意仏勅の団体は創価学会以外にありません。池田先生は「学会の前進によって、日本の未来が決まる。そういう時代に入った。」と言われています。この大確信の下、今なすべき拡大の戦いに学会と共に前進して参りましょう。

さて、今日は師匠の境涯に迫るというテーマで若干のお時間をいただきたいと思います。

私事ですが、今、私は、不慣れな新しい職場で日々汲々とする中、池田先生のご境涯に計り知れない大きさを感じ、少しでも近づいていきたい。また、そうすることが日々の生活を前向きに安心しきって送れる唯一の道だと考えるようになっています。

先生は一度会った人に対して、それが最後の出会いと思って全力で接していくのだと言われます。また、先生が矢継ぎ早に指示を出し、手を打たれるお姿に接した幹部は、まるで目の前の映像を見るように一つ一つの事を明確に把握されているとも語っています。

これは、相手の立場に深く立てる、どんな状況も人事ではなく我が身一身の一大事だと思える、そういうご境涯だからこそ出来ることではないか。私はそう思ったのですが、皆様はいかがでしょう。

先日、職場で不慣れから来る課題が発生して、一時は逃げ出したくなるような思いにかられました。そこで、先生のご境涯を思い、3時間のお題目で我が身の一大事を解決させて下さいと祈って臨んだところ、実にあっさりと解決することができ、充実感・幸福感に浸れた、ということがありました。そしてこの時思ったことは、本当の幸せというのは「毎日の悩みや課題を逃げることなく乗り越えていけるかどうかなんだ」ということでした。

そして今また、「●●●●●●拡大」という有り難い悩みに大いにチャレンジして行こうと決意しています。創立80周年のこの戦いで大いに境涯を開き、宿命転換を果たして参りましょう。

種種御振舞御書の拝読範囲の本文

此の文の心は日蓮によりて日本国の有無はあるべし、譬へば宅に柱なければ・たもたず人に魂なければ死人なり、日蓮は日本の人の魂なり平左衛門既に日本の柱をたをしぬ、只今世乱れてそれともなく・ゆめの如くに妄語出来して此の御一門どしうちして後には他国)よりせめらるべし、例せば立正安国論に委しきが如し(御書全集919ページより)

種種御振舞御書の拝読範囲の本文現代語訳

この書(開目抄)の大旨は、次のようである。日蓮に依って日本国の有無は決まる。譬)えば、家に柱がなければ保つことはできない。人に魂がなければ死人である。日蓮は日本の人の魂である。平左衛門尉はすでに日本の柱を倒してしまった。そのために、ただ今、世が乱れて、それという根拠もなく夢のように妄語が出てきて、この北条一門が同士打ちして、後には他国から攻められるであろう。例えば「立正安国論」に詳しく述べた通りである。

種種御振舞御書 拝読範囲に触れて

以下、2010年の5月の座談会御書として研鑽した時の感想も記載いたします。

妙法・法華経を身で読んだ御本仏の大確信のなんと壮大で揺ぎ無いことか、と思われてなりません。ともすれば日々直面する現実生活との格闘に埋没してしまいそうな自らの小ささを情けなく思うばかりです。大聖人は日本の柱、日本の眼目、日本の大船と宣言されています。日々の憂いに押し流される自身のどこに、御本仏の御境涯の片鱗があるというのか・・。

日蓮大聖人に連なるということは人本尊としての御本仏の境涯を仰ぎ、それを我が生命とすること。そのための唱題であり学会活動であるはず。日蓮仏法は何があっても生きて生きて生き抜く仏法。嫌になるとか落ち込むとかいうことは、我が胸中の仏界を損なう謗法と銘記しようと思います。