座談会御書

創価学会(4月度御書講義①)開目抄(2010年)詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ

開目抄の以下の範囲は、2010年4月度御書講義の拝読範囲です。開目抄は創価学会の御書ともいうべき御書です。誓願の力とも言うべきものを学んで参りたいと思います。以下に記したものは、開目抄の4月度御書講義に際して、自らが講義するにあたり、御書学習会担当者会の同時中継にて学んだ内容と自らの研鑽をとりまとめたものです。

4月度御書講義 開目抄 ① では「開目抄御述作の背景」と「拝読範囲本文の講義」の内、1段目と2段目を掲載しています。4月度御書講義 開目抄 ②と併せて2ページの構成で掲載しています。

<開目抄拝読範囲の全文>
詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん、身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、大願を立てん日本国の位をゆづらむ、法華経をすてて観経等について後生をごせよ、父母の頚を刎ん念仏申さずば、なんどの種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず。(御書全集・開目抄下232頁1行目~6行目より引用)

【開目抄|我並びに~参考ページ】
開目抄のポイント(5月度座談会御書講義)

2010年4月度 開目抄 御書講義

【開目抄御述作の背景】

極寒の流罪の地、佐渡で著され、文永9年2月に四条金吾を通して弟子一同に伝えられています。前年の9月12日に大聖人は竜の口の頸の座に臨まれ、翌月には佐渡に流罪の身となっています。弟子たちも投獄・追放・所領没収などの迫害を受けました。「かまくらにも御勘気の時・千が九百九十九人は堕ちて候(御書全集P907)」と言われるほどの大打撃が教団を襲ったのです。

【拝読範囲本文の講義】

-拝読範囲第一段の講義-

①『詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん』、

上記の一節を拝して、拝読範囲全体にわたる内容を以下に示す。

誓願に生き抜く法華経の行者よりまとめ

開目抄は、日蓮大聖人が法華経の行者であるならば、どうして諸天の加護がないのか?という世間や門下からの疑難に答えられていく内容になっています。

権力の弾圧で教団は壊滅状態になりました。そして、生きて戻れる望みのない極寒の地佐渡へ、流罪に身となった日蓮大聖人には、未だ諸天の加護が現れません。大聖人はその理由を大要を次のように述べられ、これらをあらゆる観点から考察し抜かれていきます。

それは、法華経勧持品に法華経の行者には必ず三類の強敵の迫害があるということ。法華経不軽品で不軽菩薩が悪口罵詈(あっくめり)されて過去世の重罪を消し去ったということ。諸天が謗法の悪国を捨てたという神天上の法門などです。

そして、その結論として述べられた「詮ずるところは~」の一節は、諸天に捨てられ諸難にあうことは覚悟されていた、という驚くべきものでありました。そして、「詮ずるところは~」、すなわち「結局のところは」と仰せになっているのは、これまで様々に説明してきた論証をさておき、「~天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」という、大聖人の御境涯の表明こそが最上の教えであるのだと仰せになっているのです。

この御覚悟は立宗宣言以来のものであり、広宣流布の誓願に立って、自ら、濁世の闇を破る闘争の先頭に立たれて来た御境涯より発せられたものと拝せます。

広宣流布のこの誓願とは、法華経に即して言えば、末法の衆生を救おうという久遠からの地涌の菩薩の「誓願」に他なりません。

広布の誓願を貫くには不退の心・不退の信心が肝心です。結局のところ、師弟不二の信心で、日蓮大聖人のお心を我が心として、苦難と戦い抜いていくということです。

苦難は、魂を限りなく浄化し、限りなく向上させます。魂の向上の行き着く所こそ、成仏の境涯に他なりません。日蓮大聖人の仏法において、法華経の行者となっていくことは、まさに成仏の異名と言えるのです。

翻って、詮ずるところは~の一節については、日蓮大聖人御自身の「戦う心」を門下に伝えたいという心境が込められていると拝せます。池田先生は、『「新・人間革命」第22巻「波濤」の40』で、「伸一が第三代会長として広宣流布の指揮を執るにあたって、深く生命に刻んだ一節である。ここには、大聖人の透徹した信念の獅子吼がある。」と言われています。

開目抄 御書学担当者会同中メモ

諸天の加護の有無は問題ではないとの御境涯と本物の弟子よ井出よとの御心境。自らの姿で模範を示す師匠と師匠と同じ誓願の弟子。ここに師弟不二の宗教の確立がある。

-拝読範囲第二段の講義-

②『身子が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼の婆羅門の責を堪えざるゆへ、久遠大通の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし、』

広布誓願の人生に不可欠なのは、「不退の心」です。「退転せじと願しぬ(開目抄200頁16行目)」とは、日蓮大聖人のが立宗の時の誓いであり、佐渡流罪に至るまで、大聖人はこの不退の心を貫かれています。それに対しここでは、舎利弗と久遠大通の者の退転の例を挙げられています。

彼らの退転は悪知識という悪縁によるものと言えます。末法濁世にあって悪縁に紛動されずに不退の心を貫くには万人救済を誓う「誓願」の力が不可欠です。誓願の力とは、誓願に生きる師匠を求めぬく師弟不二の信心です。

悪知識が原因と言っても、それは悪知識に紛動される自身の生命の問題です。信心は自身の無明の生命との戦いといえます。無明の生命とは万人に仏性があるということを否定する命です。身子(舎利弗)は婆羅門の責に、万人に仏性ありということが信じられなくなりました。これに対して、法華経不軽品の不軽菩薩は、どこまでも万人の仏性を敬って仏になったのです。

「善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」とは、悪知識は善悪両面にわたるということです。次の第三段の「日本国の位をゆづらむ、」は善に該当する甘言であり、「父母の頚を刎ん念仏申さずば、」は悪に該当する脅迫と言えます。

身子(舎利弗)のエピソードは御書全集P1082(兄弟抄)10行目本文を参照。

戸田先生と池田先生の関連の御指導は大百蓮華2010年4月号P70の上段「2嵐に揺るがぬ大樹と育て」を参照。

4月度御書講義 開目抄 ②に続く


開目抄(4月度御書講義②)